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■Infomation

9月20日、南軍D・H・ヒル少将が午前7時半に北軍の右翼を攻撃すると想定された。しかし、ヒルの攻撃は2時間遅れ、後に命令を受けていなかったと主張したが、翼の指揮官から外されてむくれていたと考えられている。トーマス隊の兵士はケリー農園周辺の前線で生の朝食を作る静かな朝の時間を過ごしていた。その後間もなくヒル隊の攻撃が始まり、その一師団であるジョン・ブレッキンリッジ少将の師団がトーマス隊の左翼を攻撃し、その側面を衝いて一時はトーマス隊の後を取った。午前10時15分までに、予備隊として置かれていたネグリーの師団の一部が北に押しだし、その攻撃を撃退した。南軍の次の攻撃はパトリック・クリバーン少将によるものだったが、ケリー農園の胸壁からの銃火で止められた。ブラッグは北軍左翼への攻撃が失敗することを心配し、全線にわたる攻撃を命じ、側面攻撃から正面攻撃に戦術を変えた。午前11時、アレクサンダー・P・スチュアート少将とウォーカーによる攻撃が撃退された。 トーマスが援軍を要求し、ローズクランズはその側面に対する初期攻撃に対応して部隊を動かし始めた。午前11時頃、T・J・ウッド将軍は、トーマス隊の支援を命じられたジョン・ミルトン・ブラナン准将の師団との入れ替わりを命じられた。しかし、ブラナンはスチュアート隊に攻撃された後でこの命令に従わなかった。その命令は書き方がまずく、ウッドにはレイノルズ隊に接近して支援するように告げられていた。ウッド隊はレイノルズ隊に近づけなかったが、その兵士を支援できる陣地には移動させた。このために隙間が生じてしまい、ロングストリートの翼全軍が攻撃した時に、軍団長マクックがこれを埋めようとした。ロングストリート軍はこの隙間に付け込むことができ、北軍が動いたときにその側面を衝いた。ロングストリートは意図しなかったものではあったが急襲を成功させ、この戦争での賞賛に値する評判を勝ち取った。 隙間を空けられた北軍はローズクランズと共に撤退を始め、マクックとクリッテンデンの軍団がそれに続いた。午後1時までにトーマスは戦場に残された唯一の部隊となった。ローズクランズからは、チャタヌーガの方向にある数マイル北のロスビルまで撤退するように伝言を受けた。しかし、戦場の北のマカフィー教会付近にいた北軍予備軍団の指揮官ゴードン・グランジャー少将は、南の砲声を聞いて独自の判断でジェイムズ・B・スティードマン准将をFX 初心者 の支援に送った。スティードマンは午後2時半頃に到着し、ロングストリートがトーマス隊の右翼を包み込もうとしているときに間に合った。午後4時頃、ロングストリートは最後の攻撃を試みたが強固な北軍の守備を破れなかった。同時にトーマスはチーザムからの左翼への再開された攻撃も撃退した。 この戦いに参戦したフロリダ州兵士に捧げられた記念碑トーマス隊はその夜ロスビルまで撤退した。その日の英雄的な守りで「チカマウガの岩」という渾名を貰った。その部隊が果敢に戦ったの事実だが、その決断力が北軍を大惨事から救ったと認識されている。ブラッグは大きな損失を蒙っていたことと、兵站の問題もあったために、北軍の追撃ができなかった。 9月21日、ローズクランズ軍はチャタヌーガ市内に撤退し、南軍はそれを取り囲む高地を占領して日経225 を包囲した。ローズクランズはこの包囲を破れず、10月19日にカンバーランド軍指揮官から外された。ブラッグ軍の包囲を破ったのはユリシーズ・グラント少将とウィリアム・シャーマン少将の救援軍であり、11月の第三次チャタヌーガの戦いだった。 南軍はその勝利で北軍の進行を止めたが、チカマウガの戦いは損失の大きいものだった。両軍で34,624名の損失が出たとされている(北軍16,170名、南軍18,454名)。 第三次チャタヌーガの戦い(だいさんじチャタヌーガのたたかい、英:Third Battle of Chattanooga、一般的には単にチャタヌーガの戦い、英:Battle of Chattanooga、他にルックアウト山の戦い、英:Battle of Lookout Mountain、ミッショナリー・リッジの戦い、英:Battle of Missionary Ridgeという呼び方もされる)は南北戦争の1863年11月23日から25日に、テネシー州チャタヌーガ近くで行われた戦いである。北軍のユリシーズ・グラント少将はブラクストン・ブラッグ将軍の南軍を破ることで、テネシー州にいた最後の南軍を排除し、ディープサウス侵攻への道が開け、1864年のアトランタ方面作戦に繋がった。 北軍ウィリアム・ローズクランズのカンバーランド軍4万名は、チカマウガの戦いでの悲惨な敗北の後で、チャタヌーガに撤退した。南軍ブラクストン・ブラッグ将軍のテネシー軍は市を包囲して、北軍を飢えさせて降伏に追い込もうとした。市郊外での追撃はのんびりとしたものであり、北軍に守りを強化する時間を与えてしまった。ブラッグ軍はルックアウト山とミッショナリー・リッジに陣取り、どちらからも市内、テネシー川(市内を貫流していた)および北軍の供給線を見下ろせることができた。ルックアウト山に据えられた大砲が川による接近を支配し、騎兵隊がチャタヌーガに向かう輜重隊への襲撃を敢行したので、北軍は兵士達を食わせていくために他の先物取引 を見出す必要があった。 北軍政府は敗北の可能性に警鐘を鳴らされ、援軍を派遣した。10月17日、ユリシーズ・グラント少将はミシシッピ軍事地区軍と呼ばれた西部軍指揮官職を与えられた。グラント軍はチャタヌーガに移動し、指揮官ローズクランズをジョージ・ヘンリー・トーマス少将にすげ替えた。グラントの技師長であるウィリアム・F・"ボールディ"・スミスは「クラッカー・ライン」と呼ばれる作戦を編み出し、10月27日に水陸協働でブラウンズフェリーに突然の上陸を敢行し(ブラウンズフェリーの戦いと呼ばれることもある)、トーマスのカンバーランド軍とジョセフ・フッカー少将率いる東部戦線ポトマック軍から派遣された救援軍2万名とを繋ぎ、テネシー川を開放した。これで川を使ったチャタヌーガへの物資と援軍の搬入が可能となり、グラント軍のチャンスが拡がった。これに反応したブラッグはジェイムズ・ロングストリート中将にルックアウト渓谷から北軍を追い出すように命じた。その先物取引 としてのウォーハッチーの戦い(10月28日-29日)は南北戦争の中では夜だけで戦われた数少ないものの一つとなった。南軍が撃退されクラッカー・ラインは確保された。 グラントのミシシッピ軍事地区軍はチャタヌーガでは次の部隊で編成された[2]。 カンバーランド軍、ジョージ・ヘンリー・トーマス少将指揮、ゴードン・グランジャー少将の第4軍団とジョン・Mパーマー少将の第14軍団で構成 テネシー軍、ウィリアム・シャーマン少将指揮、フランクリン・P・ブレア・ジュニア少将の第15軍団とジョン・E・スミス准将の第17軍団第2師団で構成 ジョセフ・フッカー少将指揮の部隊、オリバー・O・ハワード少将の第11軍団とジョン・W・ギアリー准将の第12軍団第2師団で構成。フッカーは第4、第14および第15軍団の一部も指揮した。 ブラッグのテネシー軍はチャタヌーガでは次の部隊が使えた[3]。 ハーディ軍団、ウィリアム・J・ハーディ中将指揮、カーター・L・スティーブンソンとパトリック・クリバーン各少将およびジョン・K・ジャクソン(チーザム師団)とステイツ・ライト・ギスト(ウォーカー師団)各准将の師団 ブレッキンリッジ軍団、ジョン・ブレッキンリッジ少将指揮、アレクサンダー・P・スチュアート少将およびJ・パットン・アンダーソン(ヒンドマン師団)とウィリアム・B・ベイト(ブレッキンリッジ師団)各准将の師団 10月31日、ブラッグ軍は、ジェイムズ・ロングストリート中将指揮するロングストリート軍団(ラファイエット・マクローズ少将とジョン・ベル・フッド中将の師団で構成)をノックスビル近くにいる北軍アンブローズ・バーンサイド少将の軍隊に対抗するために派遣し、大きくその戦力を減らしていた。11月22日、サイモン・B・バックナー少将の師団にノックスビルのロングストリート支援を命令することでブラッグ軍はさらにその勢力を減らした。 ルックアウト山の戦い11月半ばにウィリアム・シャーマン少将がテネシー軍2万名を率いて到着したとき、グラントは攻勢を始めた。その最初の動きは、11月23日に当時のチャタヌーガ市域から直ぐ外のウッド砦にあった作戦本部から、オーチャード・ノブとそれに隣接するインディアンヒルおよびブラッシー・ノブにあった南軍の前進基地に対する攻撃命令だった(歴史家の中にはオーチャード・ノブの戦いと呼ぶ者もいるが、実際には小さな戦闘だった)。オーチャード・ノブはそこから次の2日間の戦闘を方向付ける前進し中央を占める地点にあった。この同じ日に信じられないようなことであるが、南北戦争を通じて両軍の中で最も実行力有る師団指揮官と当時の同僚達多くが見なしていたパトリック・R・クリバーン少将の師団に、ブラッグはバックナーの後を追ってノックスビルに向かうよう命じた。 北軍の11月24日の作戦は2方向からの攻撃だった。フッカー隊はルックアウト山の南軍左翼に、シャーマン隊はミッショナリー・リッジの北縁にいる右翼への攻撃を行うこととされた。フッカー隊は3個師団、第12軍団のジョン・W・ギアリー師団、第14軍団のチャールズ・クラフト師団および第15軍団のピーター・J・オスターハウス師団だった。クラフトとオスターハウスの前進はルックアウト・クリークで行き詰まったが、ギアリー隊はさらに南で抵抗無く川を渉り、山と川の間の谷間が確保されていないことを発見した。北軍はベンジャミン・チーザム師団(一時的にジョン・K・ジャクソンが指揮)のエドワード・クレイ・ウォルトホール旅団の抵抗を受けたが、ギアリーはルックアウト山の麓を北東に回り、ウォルトホールの勢力的に遙かに劣る部隊を山の北縁真下にあるクラベンス・ハウスまで押し返した[4]。山の頂上にいた南軍ジョン・C・ブラウンの旅団は崖下で行われている戦闘に対しては手の撃ちようが無いことが分かった。ギアリーの成功で他の2個師団も川を渉ることができ、その前面にいる南軍の散兵を飲み込んでいった。午後1時頃に南軍ジョン・C・ムーアの旅団がギアリー隊とクラフト師団のウォルター・C・ホイッタカー旅団との戦闘に巻き込まれた[5]。ムーア隊は押し返され、間もなくエドマンド・ペタス旅団が合流した。午後3時頃までに、厚い霧が山を覆った。両軍は午後の残りを霧の中でめくら滅法撃ち続けたが、当たる者はほとんどいなかった。この戦闘中、フッカーはグラントに一連の「泣き言か空威張り」の伝言を送り続けたが、「十中八九、敵は今夜撤退するだろう」と予言したのは正に当たった[6]。ブラッグは戦闘が負けていることを認識し、その陣地を放棄する命令を出した。夜半に霧が晴れ、月食の下で、カーター・L・スティーブンソンとチーザムの師団はチャタヌーガ・クリークの対岸に撤退し、その後の橋を焼いた。