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■Infomation

尾根の底で射撃壕線を守っていた南軍兵も矛盾した命令に悩まされた。或る者は一斉射撃した後に撤退すると命令され、また或る者はその陣地を死守することになっていた。留まって戦った者は北軍兵の数に圧倒され、多くが捕虜になった。他の者は後から撃たれることに怯えながら尾根の頂部まで長い距離を登り始めた。北軍兵の手を逃れた者はその辛さで完全にへたばり、暫くの間自分を守ることもできなかった。 南軍の大砲は北軍の最初の突撃のときはほとんど当たらなかったが、一旦北軍兵が射撃壕線で止まると彼等を全滅させる勢いだった。南部のライフル銃兵もその銃弾を降り注いだ。北軍の何人かの部隊指揮官は最悪の銃火を避けるために兵士に前進させた。ウィリッチの散兵は命令無しに尾根を登り始めた。ウィリッチは射撃壕線で虐殺されるよりも彼等の後に着いた方が良いと決断し、前進命令を出したが、既に幾つかの部隊は登り始めていた。これを見たヘイズンとビーティも最初の横隊に登坂命令を出した。ウッドが射撃壕線に到達したとき2列目の横隊が同じように登坂命令を出すように請い、ウッドは彼等を前進させた。 グラントは北軍兵が尾根を登り始めたのを見て衝撃を受けた。まずトーマスに続いてグランジャーに誰が命令を出したか尋ねた。どちらの将軍もその責任があると言わなかったが、グランジャーが「あいつ等が登り始めたら誰も止められない」と答えた[18]。続いてグランジャーはウッドに、もしウッドが可能だと思うならば尾根の頂上を取る許可を与えると伝令を送った。何人かの伝令がほとんど同時に異なる命令を持って出て、さらに混乱を増した。 最左翼ではフェルプスとヴァン・ダービアが射撃壕を捕獲してその陣地を守った。幾らか粗い地面と格闘しながらターチンの旅団がその後に続いた。しかし、その部隊が射撃壕を制圧するやいなや、「気違いロシア人」(ターチンのこと)は即座に尾根登りを奨励した。ベアードが他の2個旅団を送り出せる前に停止命令を受け取った。 ワグナーとハーカーの部隊はウッドの旅団の後を追って直ぐに登り始めた。ワグナーが半分上った時に、尾根の底で停止する命令を受け取った。彼は部隊に引き返しを命じた。彼等が引き返し始めると勢いづいた南軍の守備兵のために大きな損失を受けた[19]。ワグナーとハーカーの部下の何人かが射撃壕線に戻ると、彼等の左にいたウッドの師団と右にいた自分達の師団がまだ丘に登り続けているのを見た。競争相手の師団に先に行かれて、ワグナーは第2列目に登坂を命じた。シェリダンも間もなくハーカーに後退を命じた。その右手では、フランシス・シャーマン旅団が尾根の半分くらいの所にある塹壕線に直面し苦心していた。遙か右では、ジョンソンの2個旅団が射撃壕の決死の抵抗に遭い、尾根登りの開始が遅れた。 南軍の前線は先ず午後5時頃にバーズミル道路で破れた[20]。ウィリッチの連隊の1つにヘイズンの2個連隊も加わって南軍胸壁の50ヤード (45 m)まで進んだ。地形が湾曲しているために保護されて忍び寄り、続いて突進してウィリアム・F・タッカー旅団が守る胸壁に飛び込んだ。近くにいた守備兵は急を衝かれて降伏するか命からがら逃げ出した。抜け目のない北軍士官がその連隊を右左に動かして南軍の前線を包み込み始めた。タッカーは勇敢にも部下の兵士達を鼓舞したが、その時までにウィリッチとヘイズンの兵士達が頂上に溢れていた。 ブラッグ軍には戦術的な予備隊が無かったので、その守備陣はほんの薄い皮一枚だった。裂け目を繕うために南軍の将軍達は近くにいる旅団指揮官達に幾らかの連隊を貸して貰うよう依頼し反撃に移ろうとした。幾つかの場所では、これが守備の主戦線を弱め、その前にいた北軍旅団に頂上まで登らせてしまった。 ヘイズンは一旦尾根の頂上に出るとその旅団を南に振った。この方向の南軍前線はアレクサンダー・W・レイノルズの商品先物取引 が守っており、その部隊は尾根の底からきつい坂を上ってきた者達だった。レイノルズ隊の疲れ切った兵士達は正面と側面から攻撃されて崩壊した。ヘイズン隊は南への進軍を続け、南軍ベイト師団のR・C・タイラー旅団を陣地から追い出し、北軍ワグナー旅団が頂上に着くことを可能にした。ベイトのフロリダ旅団は直ぐに追い出され、北軍ハーカーの部隊も頂上に到着した。南軍R・L・ギブソンの旅団はフランシス・シャーマンの部隊に打ち負かされた。ジョンソンの2個旅団は厳しい抵抗と険しい斜面のために難渋しており、尾根を上るために最も長い時間を要した。カーリン隊は午後5時半頃にやっと頂上に達した。南軍スチュアートはその陣地が絶望的なのを見て取り、オトー・F・ストラールとマーセラス・A・ストーバルの旅団を尾根から退かせた。 一方、ウィリッチの部隊は北へ回り込みアンダーソン師団の側面を潰し始めた。ウィリッチが成功したことでビーティの旅団も頂上に達することができた。この2個旅団は先ずアーサー・M・マニゴールト隊を駆逐し、北への回り込みを続けた。CFD が尾根にやってくると北軍ターチン、ヴァン・ダービアおよびフェルプス(戦死していた)の旅団が南軍ザカライア・C・デーズ、アルフレッド・J・ボーンおよびジョン・K・ジャクソンの旅団への攻撃の度合いを強めた。南軍兵の中には頑強に抵抗する者もいたが、多くの者は北軍兵が側面から圧力を掛けていることが分かった時に恐怖に捕らわれ逃げ出した。南軍の歩兵は砲兵がその大砲を脱出させるのを助ける前に逃げ出すことが多かった。この過程でアンダーソン師団全軍とチーザム師団の左翼にいたジャクソンとムーア各准将の旅団が崩壊した。北へ向けた北軍の進撃はウォルトホール旅団の頑強な抵抗と夜の訪れで止められただけだった。チーザム、ギスト、スティーブンソンおよびクリバーンはあまり損失を受けることもなくその師団を後退させたが、この敗北で兵士の士気が落ち、悔しがらせた。 シェリダン隊だけが不動産投資 の向こうまで追撃したが、その夜遅くグランジャーやトーマスの支援も無いことが明らかになったときに遂に諦めた。 ブレッキンリッジはその軍団が崩壊したときにその場にいなかった。その左翼が気になって、午後早くに前線の端まで馬で向かった。午後3時半、トーマスがその4個師団によるミッショナリー・リッジへの攻撃を始めさせた頃に、スチュワート師団の左翼J・T・ホルツクロー大佐の旅団背後で馬を止めた。このとき南西方向でフッカーの部隊が忙しくチャタヌーガ・クリークに橋を架けているのを目撃した。ブレッキンリッジは左翼の防御が無いロスビル・ギャップが心配になり、ホルツクローにその場所を守るために幾らかの連隊を送るよう命令した。しかし遅すぎた。南軍兵がその峡谷に到着したときは、オスターハウスの師団が既に通り過ぎていた。ブレッキンリッジの息子、キャベル・ブレッキンリッジは北軍兵の集団に乗り入れてしまい、捕獲された[21]。 オスターハウスが上官のフッカーにこの成功を報せると、フッカーは直ぐにその部隊を北へ向かわせ3方向からの投資信託 を仕掛けた。オスターハウス隊はミッショナリー・リッジ東の道を進ませ、クラフト隊は尾根自体に取り付き、ギアリー隊は尾根の西面に向かわせた。ホルツクローはその部隊を南に向かわせ戦闘を始めたが、クラフト隊とオスターハウス隊が間もなく勢力の劣る南軍兵をミッショナリー・リッジの北に追い始めた。ブレッキンリッジは北の騒々しい音を聞いて遂に馬で乗り出し、悪いことがおこっているかを見付けようとした。ホルツクロー隊はフッカーの部隊の前に後退し、このとき尾根に跨って位置していたカーリン旅団アンソン・G・マクックの第2オハイオ連隊に行き当たった。四面を優勢な敵に取り囲まれ約700名のホルツクロー隊は降伏した[22]。 その夜の間に、ブラッグはウェスタン・アンド・アトランティック鉄道のチカマウガ駅(現在はラベル飛行場があるところ)までの撤退を命じ、翌日にはそこからジョージア州ダルトンまでの撤退を始めて、2つの道に分かれて進んだ。この撤退中、小さな戦闘がチカマウガ駅、ヒッコリー渓谷のシェファーズ・ラン、古いコンコード集落のキャット・クリーク(マッキー支流)、およびグレイスビルで起こった。この日、11月26日は偶然にもアメリカでは最初の正式な感謝祭の日だった。 グラントが命じた追撃はリングゴールド・ギャップの戦いで実質的に挫折した。第三次チャタヌーガの戦いに参加した約56,000名の北軍の損失は5,824名(戦死753名、負傷4,722名、不明349名)となり、約44,000名の南軍の損失は6,667名(戦死361名、負傷2,160名、不明4,146名その大半は捕虜)となった。グラントは捕虜の数を6,142名と主張しており、南軍の損失はもう少し大きい可能性がある。さらに北軍は40門の大砲、69両の台車と弾薬箱を捕獲した。一人の従軍牧師が外貨預金 に、戦死者は州で分けて埋葬するかどうかを尋ねたとき、トーマスは「混ぜてよい。私は「州の権限」に飽きた」と答えた[23]。 南軍の大きな2つの軍隊のうち1つが壊滅した。北軍は「ローワー・サウス」への入り口チャタヌーガを確保した。そこはシャーマンによる1864年のアトランタ方面作戦で物資と兵站の基地となり、カンバーランド軍にも本拠となった(オハイオ軍はノックスビルを、テネシー軍はナッシュビルを本拠にしていた)。グラントは1864年3月に北軍全軍の司令官となる前に西部戦線での最後の戦いに勝利した