株を知って暮らしに潤いを

転換社債

■Infomation

グラントは、その命令が忠実に実行されなかったことで当初は激怒した。トーマスは攻撃が失敗した場合に非難されることが分かっていたので同じくらい驚愕に取り付かれた。しかし成功した。ブラッグは射撃壕を軍事的頂部ではなく実際の地形的頂部に配置したことで多く批判されたが、当時塹壕戦は北アメリカや一般的軍事原理では新しいものであり、そのような頂部について明確な慣習は無かった。シャーマン隊がビリーゴート・ヒルに掘った射撃壕も実際の頂部に沿っておかれていた。しかし、ブラッグは南軍の射撃壕の時機を失した構築(カンバーランド軍がオーチャード・ノブを占領した日に命令が出た)や、それを3列の薄いお粗末な防御線に拡げたために、南軍兵が初めの射撃壕2列から撤退するときに混乱を生じ、北軍兵で頂部が蹂躙されるようになったことについて、明らかに非難されるべきである。 東部戦線の主戦場はバージニア州、ウエストバージニア州、メリーランド州およびペンシルバニア州であり、コロンビア特別区および海岸の要塞やノースカロライナ州の海港も含まれる。(カロライナ両州の内陸部では1865年に戦闘があったが、これらは西部戦線に含める。) 東部戦線には南北戦争の経過の中で一般に名の知られた作戦が含まれている。これはその戦略的重要性の故ではなく、人口集中部に近く、大きな新聞の発行所があり、対立する両軍の主要都市があったからである。実際北部の首都であるワシントンD.C.と南部の首都であるリッチモンドは両方とも東部に所在し、100マイル (160 km) 程度しか離れていない。あの広いアメリカではこれはほとんど目と鼻の先程度の距離であり、ワシントンD.C.に至っては目の前を流れているポトマック川を越えたらそこはもう敵地(バージニア州)と言うようなだった。結果的に両軍の首都攻防戦が何度も行われ、多くの人の記憶に残ることとなった(また、どちらの軍でも東部で指揮を任されることのほうが西部に派遣されるより名誉な事だと思われていた)。北部人も南部人もその想像力は、米軍屈指の名将として名高いロバート・E・リー将軍が指揮する南部の北バージニア軍と、その名将に対抗するべくリンカーン大統領が次々と指揮官を変更した北部のポトマック軍の間の壮大な戦いに捉えられてきた。南北戦争の中でも最も流血の多い戦い(ゲティスバーグの戦い)と流血の多い一日(アンティータムの戦い)もこの戦線でのできごとだった。南軍を倒すためには西部戦線の方が戦略的に重要だったという議論がなされてきたが、1865年のアポマットクス庁舎でのリーの降伏という決断無くして戦争が終わったと双方の文民が考えられたかといえば、それはあり得ないことである。 戦線はアパラチア山脈と大西洋に挟まれていた。戦闘の大半はワシントンとリッチモンドの間の地域で行われた。この地域では、多くの川が主に西から東に流れており、北軍にとって接近経路や通信線となるよりも障害となっていたので、南軍の守備隊には好都合であった。このことは西部戦線の初期とは全く異なっており、北軍は輸送経路として当時の主要道路にのみ頼っていたので、両軍共に冬季の作戦行動には制限があった。北軍の利点は海や主要河川を制していたことであり、海洋に近く駐屯する軍隊への補強や補給を容易にしていた。 アメリカ合衆国国立公園局(NPS)によって作られた作戦の分類では[1]、本稿で使うものよりも詳細になっている。NPS分類の小さなものは省略するか、大きな作戦の中に組み込んだ。NPS分類にある東部戦線での160の戦闘のうちほんの幾つかを記述することになる。 1861年4月、サムター要塞の陥落後、両軍共に軍隊の創出で大わらわであった。エイブラハム・リンカーン大統領は反乱軍を抑えるために75,000名の志願兵の召集を命令し、これが即座にバージニア州を含む4つの州の脱退に繋がった。アメリカ陸軍には当時16,000名の兵士しかおらず、その半分以上は西部に散らばっていた。陸軍は米英戦争と米墨戦争の古参兵である年長のウィンフィールド・スコット中将に指揮されていた。アメリカ連合国の方は、一握りの連邦軍士官と兵士が退役して南軍に加わった。連合国軍の体系は当初各州によって整えられた。(強い中央政府に対する各州の嫌悪感で助長された連合国防衛軍の分散した性格は戦争の間の南軍の弱みの一つでもあった。) 最初の敵対的行動の幾つかはバージニア州西部(現在のウエストバージニア州)で起こった。ジョージ・マクレラン少将がオハイオ方面軍を指揮し、グラフトンから行軍を命じてジョージ・ポーターフィールド大佐の指揮する南軍を攻撃した。1861年6月3日、フィリッピの戦いあるいはフィリッピ・レイシーズの戦いと呼ばれる小競り合いは、この若い将軍を大衆が認識する以上の大した意味は無かった。7月に入ってリッチマウンテンの戦いで勝利し、マクレランに昇進の機会が訪れ、ポトマック軍の指揮官となった。この作戦で小さな戦闘が続いている間、ロバート・E・リー将軍は元アメリカ陸軍の有能な大佐という評判にも拘わらず、戦闘に関わることがなく、ぱっとしない成果によって「リーばあさん」という見下したような渾名まで頂戴した。リーは間もなくカロライナで要塞を築くために転出した。 この戦争での最初の重要な戦闘は6月10日にバージニア州東部で起こった。北軍のベンジャミン・バトラー少将はモンロー砦に駐屯しており、ハンプトンとニューポートニューズからの合流部隊を南軍の前線基地の攻撃に送った。モンロー砦近くのビッグベセルの戦いでジョン・マグルーダー大佐が南軍としては初めての勝利を掴んだ。 初夏にワシントン近辺の北軍野戦指揮官はアービン・マクドウェル准将であり、戦闘士官としてはあまり経験が無かったが、さらに経験の無い志願兵を率いていた。志願兵はわずか90日間の徴兵であり、その期間も直ぐに切れようとしていた。外国為替 は、「リッチモンドへ」という掛け声で、北部の政治家や新聞に即座に行動を起こすよう圧力を掛けられた。マクドウェルの作戦は35,000名の部隊で行軍し、マナサスにいる南軍のP・G・T・ボーリガード准将指揮下の20,000名の部隊を攻撃するということだった。その地域にはシェナンドー渓谷に別の南軍部隊、ジョセフ・ジョンストン将軍指揮下の12,000名がいた。こちらの方は、北軍のロバート・パターソン少将が指揮する18,000名の部隊がハーバーズ・フェリーに圧力を掛けて、南軍の2つの部隊がマクドウェルに対して協働行動を取らないように牽制していた。 7月21日、マクドウェルの北東バージニア軍はボーリガードの南部ポトマック軍に対して複雑な回り込みを行い、第一次ブルランの戦い(第一次マナサスの戦いとも呼ばれる)に突入した。北軍は緒戦の有利さを活かして南軍を後退させたが、戦いの趨勢は午後に変化した。ストーンウォール・ジャクソン大佐がそのバージニア旅団を鼓舞して北軍の強襲を堪え忍ばせた。この時のことでジャクソンは「ストーンウォール」(石の壁)という渾名を貰った。南軍のジョンストン軍から鉄道を使った援軍が折良く届いた。北軍のパターソンはジョンストンの動きを封じることに失敗した。経験の足りない北軍の兵士はじりじり後退を始め、ついには恐怖に憑かれた撤退に変わり、多くのFX はワシントンD.C.までも逃げ帰った。この戦闘をお祭り気分で見ていた北部の文民や政治家達もパニックに陥った。北軍の軍隊は無事にワシントンD.C.に戻り、ボーリガード軍はあまりに疲れ、また経験も足りなかったので追撃ができなかった。第一次ブル・ランの戦いでの北軍の敗北は北部に衝撃を与え、新たな厳しい決断をしなければならないという雰囲気になり、軍人も文民もこの長引きそうで流血を伴う戦争に勝つためにはかなりの金と人を投入する必要性を認識した。 ジョージ・マクレランが新しく結成されるポトマック軍の指揮を執るために東部に呼びつけられた。ポトマック軍は東部戦線の主力部隊となった。マクレランは元鉄道会社の重役であり、訓練や管理という任務に良く適合した組織化能力を持っていた。また強い大望も持っており、11月1日までにウィンフィールド・スコットから引継ぎを受けてアメリカ陸軍総司令官に指名された。ただし、10月に行われたボールズ・ブラフの戦いでは、マクレランがポトマック川に送った遠征隊が厄介な敗北を喫していた。 ノースカロライナ州は、ウィルミントンに死活に関わる海港があり、またアウター・バンクスは北軍の海上封鎖を逃れるための貴重な海軍基地であったので、南軍にとって重要な地域であった。北軍のベンジャミン・バトラー少将はモンロー砦から回航して、1861年8月、ハッテラス入り江の戦いで船隊を捕獲した。1862年2月、アンブローズ・バーンサイド准将がやはりモンロー砦から水陸両用の遠征隊を組織し、ロアノーク島を占領した。このことはあまり知られていないが、北軍の戦略にとって重要なものであった。1862年遅くのゴールズボロ遠征隊は、海岸から内陸部に侵攻して鉄道線路や橋を破壊した。 ノースカロライナ海岸でのその後の作戦抗争は1864年遅くに始まり、ベンジャミン・バトラーとデイビッド・ポーターが共にウィルミントンの海港を守っているフィッシャー砦の占領に失敗した。1865年1月に、アルフレッド・テリー、アデルバート・エイムズおよびポーターによる第二次フィッシャーFX の戦いで、ブラクストン・ブラッグ将軍を打ち負かし、2月にはウィルミントンを陥落させた。この時期に、西部戦線のウィリアム・シャーマン少将率いる部隊がカロライナの内陸部に侵攻し、1865年4月遅くにジョセフ・ジョンストン将軍指揮下の南軍の最後の野戦部隊を降伏させた。 バレー方面作戦: フロント・ロイヤルからポート・レパブリックまで1862年春、第一次ブル・ランの戦いで得た南軍の優位は急速に衰え、西部戦線ではドネルソン砦の戦いやシャイローの戦いで北軍が優位に立っていた。マクレランのポトマック軍大部隊はFX 方面作戦で南東部からリッチモンドに迫っており、マクドウェル軍団は北からリッチモンドを叩く機会を窺っていた。またナサニエル・バンクス少将の部隊はシェナンドー・バレーの肥沃な農業地帯を脅かしていた。 南軍の士気を上げるために、バージニア州立軍人養成大学の一風変わった元教授ストーンウォール・ジャクソンが出てきた。ジャクソンの指揮下にはストーンウォール旅団や様々な民兵隊がいたが、攻撃的な作戦行動には十分でなかった。バンクス軍がポトマック川の北に留まっている間に、ジャクソンの騎兵指揮官ターナー・アシュビーがチェサピーク=オハイオ運河とボルチモア=オハイオ鉄道を襲撃した。 バンクスが反応して2月遅くにポトマック川を渡り、南に侵攻してアシュビーの攻撃から運河と鉄道を守ろうとした。ジャクソンはジョンストン軍の左翼を担っており、ジョンストンが3月にマナサスからカルピーパーに移動したとき、ウィンチェスターにいたジャクソン軍は孤立した。3月12日、バンクスは南東へ(バレーを遡る方向へ)の侵攻を続けウィンチェスターを占領した。ジャクソンはストラスバーグまで撤退した。バンクスは、マクレランの全体的な戦略の中で、さらに南へ進撃しジャクソンをバレーから追い出そうとした。これを成し遂げれば、撤退してワシントンにより近い所を守ることになっていた。3月17日にウィンチェスターからバンクス軍が南下を始め、ほぼ同じ時期にマクレラン軍は水陸両用部隊でバージニア半島への侵攻を始めた。 ジョンストンがジャクソンに与えた命令は、かなり勢力的に劣勢なので会戦を避けること、ただし、同時にバンクスの部隊を牽制して、半島を進むマクレラン軍を支援できないようにしておくことであった。バンクスは誤った情報を元にジャクソンがバレーを出て行ったと判断し、東に動いてワシントンの近くまで行った。ジャクソンは、バンクスがまさに避けたい方向に進んだために動揺していた。