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1862年3月23日の第一次カーンズタウンの戦いで、北軍はジャクソンの動きを止めて反撃し、左側面を衝いて撤退させた。ジャクソンにとってはこの方面作戦で唯一の敗北だった。ジャクソンにとって戦術的な敗退であったが、南軍にとっては戦略的な勝利であった。リンカーン大統領はバンクス軍をバレーに、マクドウェルの30,000名の部隊はフレデリックスバーグに留まらせ、半島を侵攻するマクレラン軍に予定した勢力が50,000名少なくなったからであった。 ジャクソン軍は援軍が到着して17,000名になり、敵が部隊を併せて強力になるのを待つよりもバラバラになっている北軍を攻撃する決断をした。ジャクソン軍が敵に悟られないように間道を伝っているときに、5月8日マクドウェルの戦いで敵に襲われたが、激しい戦闘の後で撃退に成功した。バンクスはフレデリックスバーグにいるマクドウェルに援軍を送り、残りは8,000名となっていたので、ストラスバーグの守りやすい場所に移った。 5月21日、ジャクソンはニューマーケットから資産運用 に軍を進めた。ジャクソン軍の行軍速度はこの方面作戦で独特の速さがあり、その歩兵隊は「ジャクソンの歩く騎兵」という渾名を貰った。ジャクソンは騎兵隊を真っ直ぐ北に向かわせて、バンクスにはストラスバーグの攻撃に向かっていると思わせようとしたが、実際の作戦はフロント・ロイヤルの小さな基地を叩き、ハーパーズ・フェリーでバンクスの通信線を素早く攻撃することだった。 5月23日、フロント・ロイヤルの戦いで、ジャクソン軍は1,000名の北軍守備隊を急襲し占拠した。このジャクソンの勝利で、ストラスバーグのバンクス隊は急遽ウィンチェスターまでの撤退を余儀なくされた。ジャクソンは追撃を試みたが、兵士達が疲れていたので北軍の補給物資隊からの外国為替証拠金取引 に留め、行軍速度をかなり遅らせることにした。5月25日、第一次ウィンチェスターの戦いで、バンクス軍は集結した南軍の攻撃を受け、徹底的に叩き潰された。バンクス隊は北へ向けて後退しポトマック川を渡った。ジャクソン軍は追撃したが不成功であった。 ワシントンでは、リンカーン大統領と陸軍長官のエドウィン・スタントンが、ジャクソン軍は単に北軍をリッチモンドから遠ざけているだけであるとしても、これを叩くのが優先課題だということで一致していた。リンカーン達はマクドウェルに20,000名の部隊をフロント・ロイヤルに送るよう、またフレモントにはハリソンバーグに移動するよう命令した。両軍がストラスバーグで落ち合えれば、ジャクソン軍の唯一の撤退路が塞がれることになる予定だった。この行動の直接の影響は、マクドウェルがマクレランと協働してリッチモンドを攻撃する計画を中止することだった。 6月2日、北軍の2隊がジャクソンを追撃した。ジャクソン軍は守備的な陣形を採って、6月8日のクロスキーズの戦いでフレモント軍を、翌9日のポート・レパブリックの戦いでシールズ軍を打ち破ることが出来た。 北軍はバレーから撤退した。ジャクソンは半島のリー将軍の部隊に加わり、七日間の戦いを戦った(おそらくバレー方面作戦でのストレスのために、ジャクソンの行動はいつになく無気力なものであった)。ジャクソンはマクレラン軍が必要としていた50,000名以上の軍隊を動けなくして、任務を果たした。バレー方面作戦の成功で、ジャクソンは南軍でも最も世に知られた軍人になり(少なくともリーにその地位を奪われるまでは)、大衆の士気を上げた。急襲や機動作戦など古典的な軍事作戦で、48日間に646マイル (1,040 km)を行軍させ、約17,000名の部隊で総計では60,000名の敵を向こうに回し、5度の意義有る勝利を挙げた。 マクレランは1861年から1862年にかけての冬をその新しいポトマック軍の訓練に費やし、リンカーン大統領からの南軍に向けて進軍すべしという要求に応えようとした。リンカーンはジョンストン軍がワシントンから30マイル (50 km)しか離れていないセンタービルに駐屯していることを特に心配していた。マクレランはジョンストン軍の力を過大評価しており、対象を軍隊よりも南軍の首都リッチモンドに向けた。マクレランはラッパハノック川をアーバンナに進み、ジョンストン軍が遮る前に陸路リッチモンドに至るという提案をした。リンカーンは、投資信託 の進軍をすれば作戦が進行している間にワシントンを敵の攻撃から守ることになるので、陸路の方を好んだが、マクレランはバージニア州の道路の状態が耐え難いものであり、首都ワシントンには然るべき防衛措置を採ること、マクレランがリッチモンドに向かえばジョンストン軍もきっと追いかけてくると主張した。この作戦は首都ワシントンで3ヶ月も議論され、遂に3月初めにリンカーンが折れてマクレランの提案を承認した。しかし、3月9日にジョンストン軍がセンタービルからカルピーパーまで後退し、マクレランのFX 作戦を無効にした。マクレランは次にモンロー砦まで船で渡り、バージニア半島(ジェイムズ川とヨーク川の間の細い帯状地)を進み、リッチモンドに至るという提案をした。リンカーンは躊躇いながらも承諾した。 マクレランは半島に向けて出発する前にポトマック軍をセンタービルに移動させ、「馴らし運転」させた。マクレランはそこで如何にジョンストン軍とその採っていた陣地が弱かったかが分かり、大きな批判を浴びることになった。3月11日、リンカーンはマクレランを総司令官の地位から外し、マクレランが向かう難しい作戦に集中できるようにした。リンカーン自身が、陸軍長官のスタントンと参謀士官の助力を得て、次の4ヶ月間陸軍の指揮を執った。ポトマック軍は3月17日にモンロー砦に向けて出港した。この出港のときは、新しく見つかった心配事があった。3月8日と9日に鉄製被覆船の最初の戦闘が起こった。CSSヴァージニアとUSSモニターがハンプトン・ローズ海戦を行ったが決着は付かなかった。陸軍についての心配事は、輸送船がその経路でこの新しい武器に直接攻撃される怖れだった。アメリカ海軍はジェイムズ川であろうとヨーク川であろうとマクレランの作戦部隊を保護できないと言い出し、ヨークタウン付近での水陸両用作戦を諦め、4月4日に半島を陸路進むように命令した。4月5日、リンカーンがマクドウェル少将軍団にモンロー砦への移動を中止させたと知らされた。これは、マクレランが以前ワシントンに残すと言っていた軍隊の数をそのまま守らなかったこと、またジャクソンのバレー方面作戦が心配の種になったことから採られた処置だった。マクレランは、日経225 された資源無しに重要な作戦の指揮を強いられることについて声高く抗議したが、ともかくも先へ進んだ。 半島方面作戦、セブン・パインズまでの地図北軍はヨークタウンまで進み、包囲戦の準備のために手間取った後で、マクレランが小競り合いであったヨークタウンの戦いで南軍を破った。この期間にハンプトン・ローズとノーフォークを占領した。北軍が撤退する南軍を追って半島を北西にリッチモンドに向かって侵攻する途中で、マグルーダー砦の近くで1日だけのウィリアムズバーグの戦いが起こったが決着は付かなかった。ウィリアムズバーグは植民地時代の古都であり、そこからは東に1マイル (1.6 km)しか離れていなかった。 5月の終りまでに、北軍はリッチモンドから数マイルの所まで前進したが、歩みは鈍かった。マクレランの作戦は大軍で包囲戦を行うことであり、そのための大量の装備や迫撃砲も運んできていた。天候が悪く道も整備されていなかったので、進行を遅らされていた。マクレランは生来慎重な性格であった。数の上で自軍の2倍もあると思われる敵を攻撃することに神経質になっていた。事実はマクレランの想像力と知性の働きで失敗した。勢力比は予想とはほとんど逆で北軍の方が優勢だった。南軍のジョンストン将軍は緩りと半島に向かって後退する間に、偽装工作をしていた。特に戦前は素人俳優であったジョン・マグルーダー指揮下の師団は、少数の部隊が何回も同じ場所をこれ見よがしに行軍することで軍勢を多く見せ、マクレランを欺いていた。 北軍がリッチモンド外郭防御線の方に動いたとき、チカホミニー川で分断されて、前線に沿って引くも進むも儘ならないようになった。5月31日から6月1日にかけてセブンパインズの戦い(フェア・オークスの戦いとも呼ばれる)が起こり、南軍が川の南にいた北軍の小部隊を攻撃した。この戦闘は戦術的には決着が付いていないが、戦略的には2つの効果があった。1つは、ジョンストンが戦闘中に負傷し、より攻撃的な性格のリー将軍に交代したことであった。リーは北バージニア軍を率いその後の戦闘で多くの戦勝をあげた。2つ目は、マクレランが攻撃的な姿勢を捨てて包囲戦を布くことを選んだことであり、リンカーンに要請した援軍が到着するのを待つことにした。マクレランは戦略的な機運を取り戻すことがなかった。